人生の意味
今日の著書
『フランクルの夜と霧』
1905年ウィーンに生まれる。
精神科医として有名であるが脳外科医としての腕前も一級であった。
1933年から、ウィーンの精神病院で女性の自殺患者部門の責任者を務めていたが、ナチスによる1938年のドイツのオーストリア併合で、ユダヤ人がドイツ人を治療することが禁じられ、任を解かれた。1941年12月に結婚したが、その9ヶ月後に家族と共に強制収容所のテレージエンシュタットに収容され、父親はここで死亡し、母親と妻は別の収容所に移されて死亡した。フランクルは1944年10月にアウシュビッツに送られたが、数日後にテュルクハイムに移送され、1945年4月にアメリカ軍により解放された。
強制収容所での体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている。発行部数は、(20世紀内の)英語版だけでも累計900万部に及び、1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入ったという。また、読売新聞による「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査で、翻訳ドキュメント部門第3位となったとされる。
よく誤解されるがフランクルのロゴセラピーは収容所体験を基に考え出されたものではなく、収容される時点ですでにその理論はほぼ完成しており、はからずも収容所体験を経て理論の正当性を実証することができたと言えよう。
極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。学会出席関連などで度々日本にも訪れていた。(参照:ウィキペディア)
私たちは、自由で自己実現が約束されている環境こそが幸せだと思っている。
しかし災害や病気、心の葛藤などに見舞われた時、
その希望は潰える。
収容所はその最悪のケースのひとつであろう。
しかしそれでも、幸せはまだ近くにあるのではないかとフランクルは考えた。
人間は欲望だけではなく、
家族愛や仕事への献身など、様々な使命感を持って生きている。
どんな状況でも、今を大事にして自分の本分を尽くし、
人の役にたつこと。そこに生きがいを見いだすことが
大事なのではないかとフランクルは考えた。
そして医師としてチフス患者の病棟で働きながら、仲間たちに希望の持ち方を語った。
「与えられた運命を引き受け、それをバネにすることで成長が生まれる」
人間には「創造する喜び」と「美や真理、愛などを体験する喜び」があると考えるようになる。しかし過酷な運命に打ちのめされていては、こうした喜びを感じとることはできない。運命に毅然とした態度をとり、どんな状況でも一瞬一瞬を大切にすること。それが生きがいを見いだす力になるとフランクルは考える。
幸福を感じ取る力を持てるかどうかは、運命への向き合い方で決まる。
『夜と霧』(フランクル)より
人は、この世にはもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができる。
人は、愛する人のことを心の中で想うだけでも、少しは幸せになれるのです。
人は、感謝をすることで、幸せな気もちになれます。
人は、何らかの希望をもつだけで、心の中を少しは明るくできます。
人は、夢の実現を想うだけで、幸せの予感を感じることができます。
人は、自分の幸せを「幸せだなぁ」と思うことで、幸せを感じることができます。
人は、精神力・心の働きだけで、それなりに幸せになれるのでしょう。
そもそも幸せは(心で)感じるものです。
うまく心を働かせ、感じられる幸せ(幸福感)は幻想ではないと思います。
『夜と霧』(フランクル)より
被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。
過酷な状況の中でも、山々の風景、沈んでいく太陽と夕景、夜明けなどの美しい自然に感動し、歌、詩、音楽、お笑いなどの芸術を愉しみにしたということです。
感情が消滅していくような状況だからこそ、心動かすものを求めるのではないでしょうか。感動できること、愉しめることなど、心を動かされることがとても大きなことに思えてくるのでしょう。
また、心が何かに集中している時には、その分イヤなことも忘れられるということもあるのでしょう。
希望をなくして心が動けなくなった時には、心動かすものに触れ、夢中になれるものに集中することが、役に立つのかもしれません。
『夜と霧』(フランクル)より
ほんのささいな恐怖をまぬがれることができれば、わたしたちは運命に感謝した。
積極的な喜びには、ほんの小さなものですら、ごくまれにしか出会えなかった。
「不幸でない幸せ」というのがあります。
大きい不幸を経験した人は、今自分がそうでないこと、それをまぬがれることでも、「まだ幸せ」と思うことが可能なのでしょう。
不幸を知っている(経験した)ということは、一つの財産なのかもしれません。
『夜と霧』(フランクル)より
およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。
苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。。
苦しみがあるから、楽しみや喜びが、より幸せと思える。
病気やケガをしてみて、健康の幸せに気づけることがある。
別れてから、その人の存在の大きさに気づくこともある。
闘いがあると、平和の幸せがわかる。
幸せがあるから、生(の時間)が、より大切に思える。
不幸があるから、幸せが、より幸せに思える。
苦もあり楽もあり、生があり死がある。幸せもあり不幸もある。
いろいろあるのが人生。どれが欠けても不完全なのかもしれません。
『夜と霧』(フランクル)より
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
生きる目的・意味を見失い、「生きることに何も期待できない」と、絶望した人は破たんしたそうです。
「生きる」ために生きる目的や意味を求めるのなら、逆に、生きることを前提に、そのために自分が期待されていること、つまり、生きるために自分が何をしたらいいのかが問題なのだと思います。
現在の私たちは、生きることだけなら、それほど難しくはないでしょう。
でも、生きる目的や意味を求める人はたくさんいます。それは、「ただ生きればいい」とは思えないからでしょう。それが見つからなくて絶望してしまう人もいます。
絶望しそうな人は、生きることで何が得られるかではなく、よりよく(幸せに)生きるためには何をしたらいいかを考えればいい、ということなのではないでしょうか。
(読書ノート 『夜と霧』 フランクル)
なにかのヒントになれば幸いです。
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